バレーボール・荒木絵里香さん|ママとしても五輪出場 しなやかに輝き続ける挑戦の背景<前編>
女子バレーボール、インドア選手として2人目となる四度の五輪出場を果たした荒木絵里香さん。2021年の東京五輪を最後に現役引退したが、14年1月には長女を出産した。アスリートとしてだけでなく、女性のライフイベントにも重きを置いた現役時代、「ヘタクソだった」という荒木さんの原点に触れた。
――北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京と四大会オリンピックに出場。しかもそのうちに二度(ロンドン、東京)はキャプテンを務め、ロンドン五輪では銅メダルも獲得。2014年には娘さんも出産され、21年に現役引退。どんな選手生活でしたか?
荒木 欲張りですよね(笑)。皆さんがご存じのようにヘタクソだったので、うまくなりたくて純粋に取り組んできた。選手としてはいろんなチャレンジができて、いろんな環境でさまざまな経験も味わうことができた。幸せな競技人生でした。だからこそ引退した今は、セカンドキャリアをどうするか、ということもちゃんと伝えて行きたいし、若い選手、特に女性アスリート、働く女性に向けて積極的に発信をしていきたいという思いが強いです。
―――今はどのようなお仕事をされていますか?
荒木 メインは(女子バレー大同生命SV.LEAGUEの)『クインシーズ刈谷』のチームコーディネーターという立場で強化やPRに携わっています。高校生や大学生の試合にも足を運びます。あとはJOCのアスリート委員、JOCの理事。『オリンピアンの会』でも理事をやらせていただいていて、6月から『ママアスリートネットワーク』の代表になりました。そのほかにも講演や解説、バレー教室、いろいろなことをやっているので、名刺もいろいろな種類があります(笑)。でも毎日家に帰ると『あー今日もうまくできなかった』とか『なぜあそこでああしたんだろう、しなかったんだろう』という反省で打ちのめされる日々です(笑)。
―――ご活躍ですね。荒木さんは現役選手の頃から引退後のキャリアについて考えていましたか? 考え始めた時期があれば教えて下さい
荒木 この時期から考え始めた、という具体的なタイミングはないんです。今までの経験が積み重なって、自分の目指すものが変化したり、考え方が変わっていったのが大きいかな。子どもを産むと考え方も変わったし、ロンドンオリンピック後には達成感を感じたり。いろいろなフェーズがあった中で、自分の中では選手生活を第一章、第二章、第三章、と区切りながらやってきました。
―――具体的にはどのように区切ってきましたか?
荒木 一章は初めて出場した北京オリンピックまでのひたすらガムシャラ期。猪突猛進で視野はゼロでしたね(笑)。二章が北京を終えてロンドンオリンピック、妊娠して産休に入るまで。三章が出産してから引退までですね。
―――女性のキャリアの中で結婚、出産は大きなターニングポイントであり、女性アスリートにとっては選手生活との兼ね合いもあります。荒木さんが出産について考え始めたのはいつ頃からでしたか?
荒木 北京オリンピックが終わった翌年にイタリア(ベルガモ)へ行ってからです。当たり前のように周りの選手は恋人を練習につれてきたり、チームのパーティーに来たり、試合が終わるとコートエンドでキスをしていたり。子どもがいる、結婚している、という姿を見た時に、アスリートとして活動しながらも自分のプライベート、ライフイベントも当たり前のようにできるんだ、というのを目の当たりにしてからです。学生やモデル、起業しながらプロ選手として活動する姿をみて、自分もそうしたいな、と選択の1つになったのが大きいですね。
―――バレーボール選手を含めて、日本では現役時代に出産して第一線に復帰するのはまだまだ少数と考えられています。
荒木 当時(14年出産)は特にそうですね。しかも私がイタリアへ行ったのは15年ぐらい前だったので、日本では圧倒的少数でしたが、自分の目で見て感じられたのが大きかった。聞く話だけでなく、チームメイトとか仲間の姿を見ると自分事になっていくんです。パリオリンピックにも出場した岩崎こよみ選手も息子さんがいますが、彼女とは私が出産から復帰した時に埼玉上尾メディックスでチームメイトでした。彼女も「私も出産しても現役を続けたいな」という話をしていたし、娘のことも一番かわいがってくれた。その彼女が今、結婚、出産を経てパリの舞台に立ったのは感慨深いし、嬉しいです。
―――女子選手は結婚、出産が引退の理由になることも多くありますが、荒木さんはやめようとは考えなかった?
荒木 私の場合はやめることはノーチョイスで、現役を続けるために今出産をしよう、と考えていました。当時はまだ20代だったので、今出産すればまだまだ競技を続けられる、と。当時の年齢が30代半ばだったとしたらまた考え方や選択も違ったのかもしれませんが、ロンドン(五輪)の後で達成感もあった。競技生活とライフイベントが重なる、たまたまいいめぐり合わせ、タイミングだったのかな、と思います。
―――出産してから身体の変化もある。娘さんも自我が出てくる中で現役選手生活を続けていた。大変なことも多かった中、現実的に「引退」を考えたのはいつでしたか?
荒木 確かに出産後は身体も大変でした。私はすぐ復帰しようと思っていたし、産後ハイだったので張り切りすぎてしまった。競技復帰をしてからも頑張っていたら身体がきつくて、めまいもする。これはしんどいなと思っていたら、実は心臓の病気になっていたんです。日本代表のメディカルチェックで初めて気づいて、入院して、手術をしました。今振り返ると、アスリートは痛みや苦しいこともどこか当たり前と思ってしまうので、異変に気づかない。そこは警告したいです。健康第一ですから。
その後は普通にバレーボールができて、私自身は変わらず『上手になりたい』という思いでやっていたんですが、東京オリンピックに向かう中で、限界を感じてきた。これからオリンピックなのにそんなことを感じてはいけない、という葛藤がありながらも、自分のパフォーマンスがこれ以上高くなっていくのは難しいだろうな、と思ったのが引退を考えたきっかけでした。「オリンピックまで」とか「子どもが小学生になったから」とか、自分の中で勝手に位置づけしようとしていましたが、うまくなりたい一心でやっていたのに、それが無理だと悟ってしまったのが一番の理由でした。
―――東京オリンピックがラストゲーム、悔いはなかった?
荒木 うーん。なかった、かな。今思うと、もう1シーズン、Vリーグでやっておけばよかったのかなと思う時もありますけど、娘と一緒に生活できるようになったし、自分にはもったいないぐらい幸せなキャリアを歩ませてもらえた。心の底からありがとうございました、という気持ちでした。
【荒木絵里香プロフィール】
クインシーズ刈谷 チームコーディネーター
1984年生まれ、岡山県出身。北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京と四度オリンピックに出場。2009〜2012年には全日本のキャプテンを務め、ロンドン大会では銅メダルも獲得。結婚・出産を経験しつつも長きに渡り活躍し、2021年に現役を引退。その後は大学院に進学するなど、現在はJOCアスリート委員や理事を務めるなど、2024年6月にはママアスリートネットワークの代表にも就任した。
バレーボール、フェンシングなどを中心に取材するスポーツライター。最も好きな現場は春高バレー。『Number』や『NumberWEB』で主にバレーボール記事を執筆、著書に『高校バレーは頭脳が9割(日本文化出版)』や『勇者たちの軌跡(文藝春秋)』がある。
1991年生まれ、宮城県出身。 小学生の時にマンチェスター・ユナイテッドを心のクラブに選定。取材で、マン・C/アーセナル/チェルシーなどに携わることができたが、未だにマンチェスター・ユナイテッドからの話は無い。