サッカー・平山相太さん|学生への指導に活かす「ふがいない自分」から変わった経験<後編>
平山相太さんは32歳で引退を決めた後、6年間の学生生活を送った。彼は「ふがいない自分」という表現で選手時代を振り返るが、選手時代の挫折と苦労はネクストキャリアの糧にもなる。
平山さんはサッカー部のコーチを務めながら仙台大を卒業。「もう少し勉強しなければ」という思いから、筑波大の大学院入学を決める。やはりサッカー部(蹴球部)の指導に関わりつつ2年間の研究生活を送った。今は仙台大のサッカー部監督を務めつつ、専任講師として授業を持ち、論文のテーマも模索中という学究生活を送っている。
彼は筑波でどのような研究を行い、学生と接する中で何を得たのか?仙台大ではどのような教員生活を送っているのか?「ふがいない自分」をどう反省し、今につなげているのか?インタビュー後編ではネクストキャリアに踏み出した平山さんの等身大を語ってもらっている。
――筑波はサッカー業界の人なら誰もが知る名門ですし、そもそも平山さんが高卒後にしばらく通っていた学校です。自然な決断だったのかもしれませんが、平山さんはなぜ筑波の大学院へ入ろうと思って、どう動いたのですか?
平山 小井土(正亮)先生が監督として筑波大蹴球部の組織の質を上げていますし、大学院生からプロに就職する学生も多い……といった理由です。まず羽生(直剛)さんに連絡しました。
――羽生さんは筑波大のOBで、FC東京時代のチームメイトです。
平山 羽生さんと小井土監督(の在学時期)が被っていて、仲もいいというので、紹介してもらいました。小井土さんから「現場をやりたいのか、強化部とかマネジメントをやりたいのか」と聞かれて、自分は「現場」と答えました。マネジメントならば他の大学という選択もあったと思いますが、「現場を希望するなら筑波が一番いい」と言われて、受験に向けた準備を始めました。
――どんな環境で、どんな勉強・研究をされたのですか?
平山 所属していたのは「サッカーコーチング論研究室」ですね。大学院生は10人から15人いて、博士課程はまた別です。
――サッカーに関わって食べていきたい人の集まりですよね?
平山 そうです。スペシャリストがいて、蹴球部のフィジカルコーチもトレーニング学研究室の院生が入ってきたりします。教授だけでなく、そういう人からも教えてもらいながらやっていました。例えば能城(裕哉)くんは卒業して今年から東京ヴェルディのコンディショニングコーチをやっています。こちらがやりたいものとすり合わせながら、彼に1年計画のフィジカルトレーニングを調整してもらったりしました。
――修士論文はどんなテーマでどう書いたのですか?
平山 テーマはクロスボールに対するFWの動きです。今ちょうど日本代表のストライカーコーチをやっている前田遼一さん(※ジュビロ磐田時代の2009年、10年には2年連続でJ1の得点王を獲得している)の事例を研究しました。彼の頭で考えている動きを構造化した内容で、それを1年かけてやりました。自分は蹴球部のコーチもやっていて、時間もそんなにないので、少しずつ書き上げた感じです。分量は3万字くらいでした。
――前田さんに頼んだときはどんな反応でしたか?
平山 「いいよー」(※前田さん風の太い低い声で)と言っていました(笑)
――平山さんと前田さんの考えに、違いはありましたか?
平山 自分はニアにクロスが入るときも、ファーにいるときも「点」で合わせていました。遼一くんもニアなら点で合わせに行くけど、ファーはもっと広く動けるようにしていると説明していました。自分の前に「スペースを空けておく」という話もしていてそこが違います。あと「ダイアゴナル(ゴール、ボールに対して斜め)で動き出すのが一番いい」とも言っていました。真っすぐでなく「斜め」に入った方が「ボールにアタックしやすい」「ボールにパワーを伝えやすい」と話していて「確かに……」と思いました。
――筑波大は練習や試合の采配も任されていたと聞いいます。サッカーエリートの子たちと向き合って、得たことはありましたか?
平山 得たというより「与えてもらったもの」の方が大きいかもしれないです。筑波の選手たちはセルフマネージメントができています。「何が自分に足りないのか」「何を伸ばさなければいけないのか」「何をしなければいけないのか」を把握している。そして、それを実行する力が高かったです。特に試合へ出られない4年生が素晴らしかったですね。悔しさを我慢して、チームのために行動している姿が印象に残っています。
――そういう立場でチームに貢献することは、決して簡単じゃないと思います。コーチとして「試合に出られない4年生」にどんなところで助けられましたか?
平山 一番は練習を本当に100%やってくれるところです。「どうせ次の試合は出られないんでしょ?」と思っている選手はちょっと手を抜くというか、「これくらいでいいか」となりがちです。そういう状況でも100%を出し切っている姿が印象に残っていますね。
――筑波の大学院で2年学んで、仙台大に教員として採用されて戻ってきました。
平山 仙台大と筑波大で6年間選手を教えていて、大学カテゴリーを指導する楽しさも知ったし、「このカテゴリは自分に合っているのではないか」と感じました。それに元々、引退するときに「大学生を教える」ことを目標に設定していました。
教員になりたいと思ったのは、やはり小嶺(忠敏/国見高校の恩師)先生の影響です。修士が終わって就活をしなければとなって、吉井総監督にも相談をして、仙台大とのご縁をいただきました。
――今は講師に着任して1年目ですが「スポーツコーチング演習」「アスリート育成論」といった授業を担当されています。
平山 他に半期とか、集中の授業がありますし、他の先生と何人かでやる「オムニバス」の授業もあります。まだ1年目なので、少なめにしていると聞いています。来年は増えるのではないかと言われています。
――サッカー部の監督もお勤めです。
平山 平日夕方は練習ですね。授業が無い日は資料作りと、授業や練習の準備と、研究があります。だから、なんだかんだ忙しいですよ。練習も選手はグラウンドに来て帰るだけですけど、指導者はその前から準備をしています。授業もどれくらい時間がかかるか、リハーサルのようなものもやっておかなければいけません。
――アスリートとしての経験が、教員として活きている部分はありますか?
平山 アスリートとしては、時間がかかりましたけど「ふがいない自分」から変われた経験をしました。教員になっても変われるヒントを示して、変われるチャンスのサポートができるのかなと思っています。
――選手時代は周囲の期待が高い中での、もどかしさは感じていらっしゃったとは思います。「ふがいない自分」をどう振り返りますか?
平山 一番の反省点は、目標設定をしていなかったことです。高校を出るときも「大学に行ってプロになれればいいか」くらいでした。オランダに行ったときも、上手くなりたい気持ちだけで行動していました。一方でその先どうしたかったのか、どうなりたかったのかまで、目標設定ができていなかった。だからダラダラ行ってしまったのかなと思います。手を抜いていたわけではなくても「その日を目一杯やるだけ」というのが良くなかったですね。
――目標設定の大切さに気づいたのはいつですか?
平山 引退を決めるくらいの時期です。FC東京で長友佑都と同じチームになりましたけど、彼はワールドカップに出て、海外で活躍して……という目標と、揺るぎない自信を持っていました。一緒にいるときは感じなかったですけど、今は「そういう部分は持っていたな、だから凄いんだ」と思います。
――今後のビジョン、キャリアの目標はどうですか?
平山 サッカー部の監督でもあるので、仙台大学をより強くして、それを継続できるようにしたいなと思っています。関東はもちろんですが、他の地域も大学サッカーに力を入れています。仙台は地方ですけどそういった大学にも劣らない、全国大会でも戦えるチームを作っていくことが目標です。
――ネクストキャリアについてなかなか考えられない、迷っているアスリートは多いはずです。そういう方へのアドバイスやエールがあればお願いします。
平山 「やらない後悔より、やる後悔を選ぼう」です。あとは自分の反省として「行動をするときには計画を立てよう」ということも皆さんへのメッセージとして伝えたいです。
【平山相太プロフィール】
1985年生まれ 福岡県北九州市出身
国見高校在学時に出場した第82回全国高校サッカー選手権では、当時史上最多となる9得点で全国制覇に貢献。アテネ五輪を目指すU-23代表の最終予選、本大会にも飛び級で招集された。卒業後の進路に注目が集まる中、筑波大学へ進学するも、20歳でオランダのヘラクレス・アルメロと契約。その後日本に戻りFC東京、ベガルタ仙台でプレーし、32歳で現役を引退。仙台大学で改めて学生生活を送り、筑波大の大学院に進んだ。2024年から仙台大学の教員として勤務するかたわら、サッカー部の監督としても指導にあたっている。
やや守備範囲が広めのスポーツライター。時にはスポーツ界の「ファウルグラウンド」まで取材のグラブを伸ばすことも。 サッカーキング、バスケットボールキング、ベースボールキングに続いて、ついにバレーボールキングへの進出も果たした。
1991年生まれ、宮城県出身。 小学生の時にマンチェスター・ユナイテッドを心のクラブに選定。取材で、マン・C/アーセナル/チェルシーなどに携わることができたが、未だにマンチェスター・ユナイテッドからの話は無い。