サッカー・武岡優斗さん|セレクション落ちに4度の手術…挫折の連続でも自分を見失わなかった元Jリーガーの復活劇

2024.12.05
取材/ 大島和人
撮影/ 須田康暉

 武岡優斗さんは通算5クラブに在籍し、34歳まで現役を続けた元Jリーガーだ。プロ入り直後は運動量で鳴らしたサイドハーフだった。一方で5年プレーした川崎フロンターレではセンターバック、サイドバック、ウイングバック、インサイドMFとあらゆるポジションを経験している。

 ただ、武岡さんはサッカーから意図的に離れたことや、手術といった挫折を多く経験したアスリートでもある。本人が「離れて戻ってを繰り返した」と説明するように、レールから脱落しそうになった状況からの復活劇が何度もある。J2からステップアップし、J1優勝も経験した12年のプロキャリアは、出会いと縁が導いたものだった。

 現在は再生医療を扱う「セルソース株式会社」に勤務する武岡さんだが、インタビュー前編は紆余曲折のあったサッカー人生を語ってもらっている。

――武岡さんは1986年生まれの京都出身ということですが、同世代の関西は好プレイヤーが目白押しです。兵庫には岡崎慎司がいて、大阪からは本田圭佑が出ました。

武岡 僕は小6の途中でサッカーを一度やめています。プレーしていた少年団が、人数が少なくて活動休止してしまったんです。そこで移籍先を探しましたが、京都だとアキ(家長昭博/現川崎フロンターレ)や渡邉将基(サガン鳥栖、横浜FCで武岡とチームメイトだった元Jリーガー)のいた長岡京SSも移籍の選択肢にはありました。でも違うチームに入る流れになりました。

 ただ、そこの練習が厳しくて楽しくもなくて……円形脱毛症になりました。府のトレセンに入っていて、関西トレセンも最終選考に残っていたこともあり、チームから退団を止められていました。でも、自分は「練習に行きません」と言って、最後の冬の大会も出ていません。トレセンの練習は楽しかったので、そちらだけ行っていました。

 僕はよくメンタルが強いと言われますけど「離れて戻ってを繰り返したサッカー人生」で、まったくそんなことありません。

――中学は宇治FCだから、街クラブとしてはかなり強豪ですね。高校は京都大谷です。

武岡 はい、宇治FCでサッカーを再スタートしました。2年生までは京都サンガユースに入れるかもしれないという話も出たんですが、中3ではあまりいいプレーが出来ず、立ち消えになってしまいました。大谷高は宇治の同級生が2人行くし、京都のベスト4にも入っていたのでいい印象を持っていましたね。ただ、高校時代も高3の時に埼玉国体に出たくらいで、目立った成績は上げられていません。選手権は最後「行けるだろう」と言われて、でも県で負けてしまいました。

 その後の大学進学では、行きたいところはすべて推薦を受けられず、セレクションを受けても普通に落ちて、関西圏は全滅。そんな時、トレセンで一緒だった渡邉将基を教えていた桂高校の平井(幹弘)先生が国士舘のOBで、話をつないでもらえました。ただスポーツ推薦でなくAO推薦で、しかも政経学部でした。

 そんな(2004年)12月に国士舘大のサッカー部員の起こした事件が、大きく報道されたんです。「部が存続できるかも分からない」と言われましたけど、他に行けるも大学ないし、とりあえず受験しました。

 ちなみに小論文のテーマが郵政民営化で「あなたはローソンとヤマト運輸、どちら側に立ってどう考えますか」みたいな内容でした。僕は15分か20分くらいフリーズしましたね(笑)。

――大学サッカーも今は有望選手を集めている、強化しているチームが増えていますけど、当時は狭き門でした。国士舘では何年から試合に出始めたのですか?

武岡 最初はまったく出ていないです。2年のときは後輩の伊東俊や柏(好文)たちがトップで出ているのをスタンドで応援していました。1年から3年までIリーグ(Bチーム以下が参加するリーグ戦)です。3年の本当に最初とラスト5試合はトップに出ました。あと4年の1年間もトップです。

――コツコツ努力をしたのか、道を逸れそうになったことがあるのか。どんな日々でしたか?

武岡 徹夜で麻雀をしていました(笑)。最初はモチベーションが高かったですけど、大学に入ると同部屋に国見と岐阜工の(第80回全国高等学校サッカー選手権)決勝のピッチに立っていた人が4人いたんですよ。「これは無理だわ」という感じで過ごして、でも2年のときはトップの1個下のチームに入れました。遠野出身のめちゃくちゃ走れる先輩がいて、一緒に走っていたら、自分も走れるようになったんです。

――そこまでは順調ですね。

武岡 3年の最初はトップに入ったけど、面白くなかったです。走りのトレーニングのとき、コーチに「なぜ真面目にやらないのか?」と言われたことがあります。僕は「別にサッカーに人生を懸けてないから」と反論したりしていました。

 あと大学生あるあるですけど「親戚の葬式」という理由で、みんな地元に遊びに帰ったりするんです。自分も同い年のやつと同じタイミングで地元に帰ったら、「いつ帰ってくるか伝えなかった」と言われて、2人で干されました。2週間後に(元々いたトップでなく)「B1」に戻りましたが、そこでも僕だけ使われなくなりました。その時期はほぼ毎日徹夜で麻雀です。

――普通そこからプロ入りはないですよね。

武岡 「何をやっているんだろう」となって、夜も寝られなくなってきました。市販の睡眠薬も効かなくなってきて、病院で「サッカーから1回離れた方がいい」と言われて、しばらく実家に帰ったほどです。すっきりして、もう1回頑張ろうとやりだしたら、原因は分からないですけど調子が良かったんですよ。ただ「トップに上げるかも」と言われても、僕は「トップは無理です」と断ったのを覚えています。

 それでもIリーグが終わったタイミングでトップに上がりました。国士舘は関東大学リーグ1部から降格の危機で、自分はラスト5試合に出ました。最後の東海大戦は90分出ています。2-4で負けていて、最後の12分で3点取らないと2部降格でした。「2部ならプロは無理だな」と思っていたら、ひっくり返したんです。(※2007年11月24日の最終節/国士舘大は79分に伊東俊、86分に菅原康太、87分に柏好文が得点して5-4と勝利した)

――そして4年時はトップに定着します。

武岡 チームの調子は良かったんですけど、個人的にはまったく良くなかったです。でもありがたいことに大学リーグが終わって、5日間だけサガン鳥栖の練習に参加することができました。それがダメだったら就職先はありません。サインしたのは、(12月に開催される)インカレの初戦の日です。

――当時の鳥栖はJ2で、経営規模も小さかったはずです。

武岡 年俸は240万、支度金が20万でした。手取りは源泉で10%引かれてまず18万になって、そこから寮費も引かれて12万です。プロサッカー選手でこれかと。正直厳しいですよね。

――1年目から40試合に出場して、2年目は岸野靖之監督とともに横浜FCに移籍します。

武岡 当時から走行距離は長かったと思います。後半にもう1回ギアを上げられるから、対面が上手い人相手でも、そこで差が出るんです。大学時代に先輩と走ったおかげ運動量で勝負できました。

――横浜FCには4年間在籍しました。

武岡 そこで右膝のオペ(手術)を2回しています。2011年からは1年以上試合に出ていません。右膝の軟骨損傷のオペを11年の2月にして、10月に再オペしています。契約もあったので、再オペはチームから止められたんです。でも「日常生活に支障が出ているし、もし満了だったらサッカーを辞める」と説得して受けました。

 これは人づてに聞いたんですけど、当時、奥大介さんが強化部にいて、11年のオフに「武岡を残せ」と言ってくれたそうです。大介さんがいなかったら、僕のサッカー選手人生はそこで終わっています。あと2012年の途中でモトさん(山口素弘)が来て、サイドバックで使ってくれたことで僕の人生が変わりました。

――そこから川崎フロンターレにステップアップしています。

武岡 横浜FCにフロンターレから数年続けてレンタルで来ている選手がいました。みんな僕と同じエージェントで、そういうつながりもあったと思います。あと「前も後ろもできる」みたいな理由で獲ったと聞いています。実際に川崎では3バックと4バックの全部と、ウイングバックやサイドハーフをやりました。

――レギュラーとして計算されていたわけではないですよね?

武岡 それは大前提で、実際2014年はほぼ出ていません。代理人とクラブには移籍をお願いしていて、許可をもらっていました。でもオフ明けに代理人から「移籍はなくなりました」と連絡が来ました。川崎はエウシーニョを獲ることになっていたけど、チームにフィットするかわからない。僕は(年俸が)そんなに高くなかったし、1年やっているからチーム戦術への理解もある。「夏まで我慢します」と言って、残りました。

 そんな状況でしたが、2015年はチームが3バックをやることになって、人生でやったことのない3バックの右に収まったんです。

――やっているうちに慣れた感じですか?

武岡 練習では毎日レナトが目の前にいて、その脇に大久保嘉人と中村憲剛です(笑)。僕からしたら目の前の相手に必死でした。そうしたら「1対1が強い」という評価をされ出した感じです。面白いことに、試合中に自分の守備で歓声が起こるんですよね。

――2017年には川崎の初優勝に貢献します。最終節に逆転しました。

武岡 色々な優勝の形がありますけど、あれ以上はないですね。

後編はこちら

【武岡優斗プロフィール】
セルソース株式会社 マーケティング部 C.B.C(セルソースバイオセラピーコンダクター)
1986年生まれ 京都府京都市出身
国士舘大学から当時J2のサガン鳥栖に入団し、ルーキーながら40試合以上に出場。翌年横浜FCに移籍。2014年にはJ1の川崎フロンターレで5シーズンに渡り様々なポジションで活躍。その後ヴァンフォーレ甲府、レノファ山口を経て引退。膝の手術を4回経験するなど、苦しいシーズンも多かったが12年の現役生活を終えた。現在は再生医療事業を展開するセルソース株式会社に入社し、マーケティングを担当している。

やや守備範囲が広めのスポーツライター。時にはスポーツ界の「ファウルグラウンド」まで取材のグラブを伸ばすことも。 サッカーキング、バスケットボールキング、ベースボールキングに続いて、ついにバレーボールキングへの進出も果たした。

1991年生まれ、宮城県出身。 小学生の時にマンチェスター・ユナイテッドを心のクラブに選定。取材で、マン・C/アーセナル/チェルシーなどに携わることができたが、未だにマンチェスター・ユナイテッドからの話は無い。

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