バスケットボール・伊藤俊亮さん|脱サラからプロへ 変革期のバスケ界を生き抜いた“イートン”の選択と覚悟

2025.02.12
取材/ 大島和人
撮影/ 野口岳彦

 伊藤俊亮さんが引退してから、まもなく7年になる。現役時代は204センチのビッグマンで「イートン」の愛称でもお馴染み。中央大在学中から日本代表に招集され、2006年の世界選手権にも出場しているトッププレイヤーだった。東芝、栃木ブレックス、三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ名古屋と強豪を渡り歩き、Bリーグ開幕は千葉ジェッツで迎えた。まだプロとして未熟だった千葉Jを、大野篤史HC(現三遠ネオフェニックス)とともに引き上げた功労者でもある。

 日本バスケ界は2016年のBリーグ発足まで「分裂と混乱」の時期が長く続いていた。ただ彼は徐々にバスケ界がいい方向に切り替わるタイミングで、絶妙のポジショニングをしていたアスリートかもしれない。社員で構成された純実業団チームの東芝から、プロチームの栃木に移り、現役時代の最後は千葉JがBリーグのフロントランナーとなる時期と重なっている。インタビュー前編では伊藤さんの「脱サラ・プロ入り」までのキャリアについて語ってもらった。

――先に選手時代のキャリアについてお聞きします。伊藤さんは神奈川県立大和高校の出身で、バスケでは無名校です。

伊藤 「目指せ県大会」というレベルの学校でした。中学の頃は下手すぎて、強化をしている学校から声の掛からない選手でした、一応進学校なので普通に受験して入って、最初はバスケットを続ける気も無かったです。席の近いクラスメイトに誘われて、ハンドボール部に行ったりしていました。ただ中学のバスケット部だった仲間が同じ高校に進学していて「みんなで行こうぜ」となって、「ええっ」と言いながら入りました。

――ただそこからは名門の中央大に進学して、バスケ界のエリートコースを歩まれました。

伊藤 神奈川は特定の強豪校が無いので、選抜チームを作るときにあちこちから集めていたんです。県代表の活動を通して色んな指導者に見ていただいていて、全日本ジュニアの選考会にも呼ばれるようになりました。身長は2メートル近くあったので……。

――現役時代は204センチの登録でしたが、当時から身長が伸びたんですか?

伊藤 高校当時は197とか8で活動していて「2メートルはちょっと……」とごまかしていた時期です。大台に乗って、それだけで「2メートル」というキャラクターを作られてしまうのが嫌でした。元々「大きいから」と目立つのがあんまり好きじゃなかったです。小学生のとき合唱コンクールがあって、「お前、デカいから指揮者をやれ」と言われて本当に嫌で……。学校を休もうかというくらいでした。見かけだけでキャラクター作られるのはまっぴらという思いはずっと続いていて、それもあったかもかもしれないです。

――伊藤さん大学を卒業する頃は、有望選手が実業団に進んでいた時代です。伊藤さんは中央大から東芝に就職ました。

伊藤 中央大のバスケ部には「学生らしく活動させよう」みたいな流れがありました。当然「授業に出ましょう」「卒業後もちゃんとしたところに就職しなさい」という方針です。

 ただ3年で就職活動を始めたときに、たまたま全日本に呼ばれました。「高橋マイケルが(合宿に)来ないらしくて、枠が一つ空いた」みたいな感じだったと思います。その時の監督は吉田健司さんでしたね。そんなこともあって「実業団でやってみない?」みたいな話をもらえたんです。

――吉田さんは東芝の方だから、そういうつながりもあったでしょう。

伊藤 全日本の活動に選手が集まるので、各チームの状況は耳に入ります。企業リーグの中でも完全な企業チームと、企業だけどプロ選手がやっているところと、社員とプロ選手の両方がいるところに分かれていました。「会社との軋轢」「社員との軋轢」「社員選手とプロとの軋轢」みたいなものが、表に出始めていた頃です。

 お誘いは何社かありました。ただ吉田健司さんがやられている東芝のバスケットが魅力的でしたし、全員が社員選手です。「社員でやりながらプレーする」ところにも魅力を感じました。

――東芝ではどういう部門で仕事をされていたんですか?

伊藤 品質保証部ですね。現場にも顔を出して、不具合が出れば理由を確かめる作業をやっている部署でした。当時は就職氷河期で、事業所に新入社員が一人しかいなかったんです。直属の上長、一つ上のポジションの人が30代後半で、貴重な新入社員としてかわいがってもらえました。色々と教わりましたし、受け入れてもらった感覚がありました。それが成功体験として残って、ここまでやれているのかなとも思います。

――伊藤さんは東芝に6シーズン在籍したあと、発足直後のリンク栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)に移籍します。田臥勇太選手、川村卓也選手とともに主力としてプレーして、2009−10シーズンのJBLを制しました。こちらは純プロチームです。

伊藤 2006年に世界選手権が日本で開催され、自分も出場させてもらいました。2005年にbjリーグが立ち上がったんですが、「プロリーグができたよね?」と言われるものの「プロ選手でなく、社会人の選手としてリーグに所属しています」と答えていましたし、「でも、日本代表でしょう?」と返されるような会話になるんです。世界選手権も悔しい結果でしたし、もうリーグのプロ化しかないなと感じたんですね。JBLのプロ化は少し難しい状況でしたが、プロとして活動する選手はいて、プロチームも生まれ始めていました。一方で大企業はお金をかけて強化をして、リーグの中でも力を持っていました。そんなことを考えているときに、ちょうどブレックスの社長だった山谷(拓志)さんからお声掛けいただいたんです。「バスケ界を変えるためにはプロが優勝しないとダメ。そのためのチームを作りたい」と仰っていました。

 あと東芝に「プロ選手としてやりたいんですけど、どうですか?」と聞いたら、会社の方針と合わずに断られてしまいまして(苦笑)。引き留められはしましたけど、プロとしてやるなら年齢的にも今のうちだと思って、栃木に移りました。だから「脱サラ」ですよね。自分はタイミングごとに「切り替え地点の真ん中」にいた感覚がすごくあって。栃木でも千葉でもチームの成長と初優勝に立ち会えて、それは恵まれていましたね。

――お給料は上がったんですか?

伊藤 年収としては上がっています。だけど単純に計算できないなと思ったのが、福利厚生面。健康保険や年金、家賃などを改めて計算し直すと、当時の年俸では手元に残るお金は会社員時代とそこまで変わらなかったように思います。

――選手引退後のキャリアは、どの辺りから考え始めましたか?

伊藤 最終的に「自分で事業を興そう」とは、ぼんやりと考えていました。そのために東芝に入社した経緯もあったんです。会社の仕組みを理解して、社会人としてどう振る舞うのかを学びたい。打算的ではありますけど、そこも目的にして東芝に入りましたね。

後編へつづく
※後編は2月13日更新予定

【伊藤俊亮プロフィール】
神奈川県立大和高校を経て、2002年中央大学卒業。
現役時代は強靭な肉体と204センチの長身に走力を兼ね備えたフィジカルプレイヤーとして日本代表でも長きに渡って活躍した。2018年5月、千葉ジェッツでのシーズンを最後に16年間に渡る現役生活に幕を下ろした。引退後、千葉ジェッツのフロントスタッフとして職務に就いていたが2019年に退職。現在はその豊富な経験を生かし、バスケットボールの普及に努めている。

やや守備範囲が広めのスポーツライター。時にはスポーツ界の「ファウルグラウンド」まで取材のグラブを伸ばすことも。 サッカーキング、バスケットボールキング、ベースボールキングに続いて、ついにバレーボールキングへの進出も果たした。

撮影/野口岳彦

1983年大阪生まれ、千葉育ち。 大学卒業後、テーマパークのスナップカメラマン、都内の写真事務所勤務を経て、2011年からフリーランス。 2014年よりJリーグオフィシャル撮影も担当。使用機材はNikon。

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